ラジオドラマ「えむあかラジオ!」公式サイト

Episode HIYO 上

 

 

  

「ふぅ…やっと、着いた……」

 

バスから降りた少女は、はぁ…と息をつきながら疲れを吐き出した。

 

一緒に乗車していた他の人たちはすでに信号を渡り終え、

散り散りになってしまっている。

 

というのも、

この少女は下車のチケットを出すのに手間取ったり、

荷物をバスの出口にひっかけてしまうなど

旅に不慣れな面をさらけ出していたからである。

 

そのためずいぶん遅れをとっていたのだ。

 

しかしバスから降りても一息つきにはまだ早い。

 

バスの収納口に入れたキャリーバックを

回収しなければならないし、

その後もその場にとどまっていては邪魔になるから、

一先ず目の前の駅前に行かなければならない。

 

少女はもう一度グッと息をのんで踏ん張り

荷物を回収したのち、顔をあげて信号を渡りきって、

ようやく駅の前に安息地を見つけた。

 

手荷物を地面にドサッと置く拍子に汗がツーっと垂れる。

額の汗をシャツの袖で拭きとってから上着を一枚脱いで、

ようやく少女はホッとため息を漏らした。

 

この少女の名前は陽代(ひよ)。

 

隣に立っているやや大きめなキャリーバックに手を乗せて、

目を瞑りながらハァーッと肩を落としているその姿は、

道行く人の目には春休みを利用して祖父母の元を一人で訪ねてきた小学生か、

或いは遠くから一人旅に来た中学生に映る。

 

しかし実際は陽代は高校生で、厳密に言えばこの春から徳島の大学に通う大学生なのである。

 

その後も陽代は、しばらくの間

疲れのあまり下を向いていた。

 

ずっと座っているだけという作業が、

一見するとラクそうに見えるのだが、

しかし長期的なものとなると辛くなってくる。

 

今回陽代が乗ってきたあのバスは、

徳島と大阪間を往復するバスである。

 

鳴門大橋ができたことによりその移動距離は短くなり、

今では3時間弱で行き来することができる。

 

そのため他の乗客たちはあまり疲れの色を見せていなかった。

 

けれども陽代の場合は、大阪に着くまでに9時間ほど余計に時間を費やしている。

 

それゆえ疲れもひとしおなのだ。

 

しかし、そんな疲れも陽代が顔をあげた瞬間に吹き飛んで行った。

 

顔をあげ見上げたその先には、陽代を驚かすものが山ほどあった。

 

「あ……」

まず目に入ったのは空の色だった。

 

陽代が地元を発った時にはまだ日が昇らず、空は黒く濁っていた。

 

しかし今ではもうすっかり空が青く、

吸いこまれそうなほど澄んだ空だった。

 

太陽は少しオレンジがかっていたがその日差しは温かく、

体を撫でる風も心地の良い春のそれだった。

 

火照る顔を冷ます柔らかい風が吹き抜け、

ツインに垂れた髪を撫でるように流れていく。

 

日差しは陽代の髪を

向日葵(ヒマワリ)色に染めあげていた。

 

しかし陽代の目が釘付けになったのは、

空より少し視線を下げた先にあるものだった。

 

「わ…あれ、ヤシの木…?」

 

大きな目を一層大きく見開いてみているのは、

まるで象の足のように硬くこわばった灰色の幹が、

空に向けて細く長く伸びた植物だった。

 

先端部から生えた葉は風に揺られてサワサワと軽い音を立てている。

 

ヤシの木かどうかは分からないが、

南国の島に生えているようなそんな木が、

モニュメントとして何本も駅の中央部に植えられている。

 

「わたし、遠くに来たんだ…」

 

ふと、そんな言葉を漏らす。

 

聞きようによってはホームシックに駆られた人のセリフのようにも感じられるが、陽代は違った。

 

もう親の庇護が及ばないような遠い土地へ来たのだと、

冒険心とも呼ぶべきワクワクとした思いが強く湧き上がり、

瞳の星はキラキラ輝いている。

 

「わ…まるでハワイとかグアムとか、外国に来たみたい」

 

今まであまり県内から出なかった陽代にとって、

この南国のような景色はまさに異国の景色そのものだった。

 

現に陽代の地元は、もう四月も目の前だというのに雪が積もっているような気候だ。

 

それに比べ12時間のバス旅を経て着いた先には、

雪どころか冬の色を全く感じない。

 

もう春の準備が整っている、そんな状態である。

 

そのため陽代は、比喩ではなく本当に外国にいるような感覚を抱いていた。

 

「あ。でも四国って名前がすでに外国っぽい!」

 

本州と瀬戸内海を隔ててるわけだし、もはや外国だよね、

そう一人興奮度を加速させる陽代。

その後も陽代を魅了する要素はまだまだ控えていた。

 

まず目の前を通りすぎていくバス、

そして大きく展開されるバスターミナル。

 

何台ものバスに次々と乗り降りしていく人の数。

 

全てが陽代の眼には新鮮に映った。

 

また、照りつける日差しを隠しながら見た

西の方には大きなビルが建っており、

ますます陽代の気分は高揚していった。

 

「わ…すっごくお街だぁ!」

 

思わず陽代はそう口にしていた。

 

しかしこのように表現したのは、

単にバスターミナルやビルを見て述べたわけではない。

 

徳島を‘お街だ’と表現するのはある理由があるからだ。

 

「あの山も、いつか登ろう…っ!」

 

そう、陽代が一番注目しているのは自然である。

 

お街という表現は都会とイコールで用いられそうだが、

彼女の場合は住みよい場所という意味で使っている。

 

そして陽代にとって住みよい条件とは

都会のような利便性ではなく、

適度な自然があるかどうかなのだ。

 

陽代が言う‘あの山’とは、

遠く海面上からは眉に見えたことから

その名が付いたとされる眉山(びざん)のことである。

 

駅の正面にどっしりと構えている眉山は、

まるで遠い異郷からやってきた陽代の様子を

見守ってくれているようで、だからこそ陽代も

一人親元を離れ辿り着いたこの地で、

これほどまでに落ち着いていられるのかもしれない。

 

そんな眉山を含め温かな気候や道行く人々の雰囲気、

そして街の様子を観察したうえで、

駅前の建物などを見て総合的に判断し‘お街だ’と称し

再び目を輝かせて街を見渡すのだった。

 

長いことその場でいろんな刺激を受けては

興奮度を高めていた陽代だったが、

不意にぎゅるるぅ~とお腹が鳴った。

 

期待で胸は膨らんだがお腹の方は減ったようで、

その音を合図に陽代は顔を赤く染めながら

何処かへ移動することにした。

 

「まずどこに行こうかな…」

 

そう呟きながら、しかし外にいて

少し日差しが暑かったのだろう。

足は自然と駅中に向いていた。

 

先ほどまで駅の正面ばかり見ていて気が付かなかったが、駅も目の前の壮大な景色に劣らない規模だった。

 

駅中は人が大勢賑わっていて、

誰かを待つ人や立ち話をする人、

土産袋を両手に携えた人などでごったがえっていた。

 

靴の音や話し声、アナウンスなどが混ざり合う中、

陽代の耳には女子の会話がよく届いて聞こえた。

 

その声はなんとなく朗らかで、

声のトーンも関東圏のものより高めだった。

しかし高音特有のキーンとする感覚は全くなく、

陽代の耳元をくすぐって、

柔らかな余韻を残し消えていった。

 

「あ、そっかぁ!方言だからやんわりとしてるんだ!」

 

そういえば受験の時も泊まった宿の人がすごく優しくのんびりとしてるって感じたっけ、と一月ほど前のことを思い起こす。

 

最近は合格祝いにといろんなところへ遊びに行ったりした日々を過ごしていたので、高校生をしていた頃のことが遠い昔のように感じられた。

 

「そっか…。まだあれから少ししか経っていないんだ…」

 

その瞬間。

 

陽代の目がふっと遠くなる。

 

先ほどまでの笑顔はやや薄れ、

どこか痛みを我慢するかのようにキュッと口元を結び、

今日にいたるまでの日々を思い出していた。

 

*    *   *

 

陽代の通う高校は、大学進学に力を注ぐ進学校だった。

 

田舎ではあったが、それゆえ伝統やらに重きを置くといった学校であり、

1年の頃から大学受験を意識した勉強を取り入れていて、

お陰で苦労することも多い高校でもあった。

 

しかし陽代自身は勉強の面ではさほど苦労はしなかった。

 

勉強は嫌いではなく、むしろしっかり授業を受ければテストの点や校内順位は伸びていったため勉強自体は好きだった。

 

陽代が辛いと感じたのは、勉強面ではなく生活面だった。

 

学校生活が灰色になった理由。それは突然訪れた。

 

ある日、現代社会の授業でとあるビデオを観た。

 

テーマは「究極の2択」というもので、

 

「もし両親が危険な状態にいたらどちらを助けるか?」

「恋人と家族のどちらを選ぶか?」など。

答えなどない、いやらしい質問をいくつかして

生徒をさんざん悩ませた挙句、

最後に「実際今言った選択を迫られることがある」と言って

先生がビデオを映し始めた。

 

スクリーンに映し出された映像は、

2011年3月に起きた東日本大震災の津波の映像だった。

 

震災があったことは陽代も当然知っていた。

しかしその頃はまだ中学1年生の三月だったため、

原発が色々言われた出来事程度にしか

記憶に残っていなかった。

 

だから初めのうちは

「あの震災からもう3年以上経ったんだ…」など

取り留めもないことを考えながら見ていた。

 

しかし、津波が押し寄せるシーンを見て

陽代の顔色が変わった。

 

はじめはゆっくりと押し寄せていた津波が、

いきなり住宅地を飲み込んだ。

それは海から来た波などとは到底思えなかった。

 

まるであの世からやってきた波で、

黄泉の国へと引きずり込むのではないか…。

 

事実、映像の中では濁った津波に

何人もの人が飲まれていった。

 

しばらくすると、画面の下半分はほぼ濁った海となっていた。

 

住宅地や道路は全てその下に消え、

それでもまだ飽き足らないのか、

津波はどんどん押し寄せてくる。

 

映像はそこで終わっていた。

 

恐らく撮影者が身の危険を感じ避難を優先したのか、

あるいは放送局の都合でカットしたのか。

それとも撮影者が…

 

その続きを考えた途端、

吐き気とともに何とも言えない恐ろしさが陽代を襲った。

 

映像が終わりクラスの空気が緩む中

陽代の顔は緩むどころか一層こわばっていた。

 

次第に顔色が青くなり、

たまらず教室を抜け出してトイレに駆け込んだ。

 

「―ッ、はぁ、はぁ……ッ」

 

バタンッ、と勢いよく個室の扉を閉め、震える手で鍵を閉めてから、

胸を押さえて座り込んだ。

 

「人が…飲み込まれて……」

 

死んだ、その言葉が脳裏によぎると、ドクンと心臓が一層騒ぎ出した。

 

思ったように息が吸えず、頭が真っ白になる。

次第に手足がしびれてくる。

肩も痛み出し、気持ち悪さがこみあげてくる。

 

同時に、まるで自分も溺れているかのように

呼吸ができない錯覚に陥った。

 

「わたしも、死ぬの……ッ!?」

 

息が吸えない。

そのことに死を予感した。

 

いやだ、死にたくない。

 

その一心で息を吸う。

 

しかしどれだけ吸っても苦しさは積もっていく一方で、

やがてそのまま意識が遠のいていった。

 

結論から言うと、特に命や体に別状はなかった。

 

その後少し回復した陽代は自分の足で保健室に向かい、

親に連れられて病院へと連れられた。

 

胸や頭がジンジンと痺れていたため

神経系に異常があるのではと疑い

不安な表情を浮かべる陽代や母親とは対称に、

医者は涼しい顔で

「単なる過呼吸ですね」と淡々と告げた。

 

「死ぬようなものでもないので、しばらく安静にしていれば治りますよ」

 

そう言っていくつか薬を処方するだけで診断は終わった。

 

母親はそれを聞いてひどく安堵したが、陽代は納得がいかなかった。

 

陽代にとっては死ぬほど辛かったのに、

なんでもありませんと平静に言う医者の言葉を、

素直に受け取ることができなかった。

 

事実その後も、過呼吸は何度も陽代を苦しめた。

 

普通に生活するのも苦しくなり、

勉強はおろか好きな食事をとったり

ピアノを弾くことなども難しくなっていった。

 

けれど何度医者の元へ通っても、言うことは決まって

「死にはしませんから。いつか収まります」の一言。

 

それならと陽代は母に頼んで病院を変えたが、

セリフは違えど大体言ってることは同じだった。

 

それでも信じることが出来ずCTを行なったが、相変わらず

「異常ありません」の一言が返ってくるばかり。

 

その結果を聞くたびに母親の顔は晴れて行ったが、

陽代の顔は一向に晴れる様子がない。

 

「納得いかない…」

 

「先生が異常ないって言ってるのだから、大丈夫よ」

 

ブスッとした表情の陽代とは反対に、

母親は明るいトーンで嬉しそうに話す。

それがまた気に入らなくて、余計表情が暗くなる。

 

「でも、異常があるから病院に行ってるのに、

 何もないっておかしいもん」

 

車の中で不平不満を吐き捨てる陽代。

 

今ではすっかり見慣れてしまった病院を

恨めしそうに睨みつけながら、

はぁ、と一つため息をつく。

 

最近では学校も休みがちになり、

特に運動などは全くできていない。

 

食べるという行為もなかなかうまくできず、

そのため顔は少しほっそりとし、

ぱっちりとしていた目は

光を失ったかのように弱っていた。

 

「…いっそ、ガンとかの病気だったらよかったのに…」

 

ぽつりと、そんなことを口にしていた。

 

というのも学校の出席数が足りなく

進級できない可能性が見え始め、

また休む理由をいう時にも友達には

「過呼吸が原因で休む」なんて言えなかったからだ。

 

だからいっそ

ガンのような本当の病気にかかっていたら、

学校の心配などしなくても済むし、

友人も心から心配して気遣ってくれるだろう。

 

そう思ったからである。

 

しかし母親はその一言に、それまで優しく頷いてくれていた姿勢から一変して大激怒した。

 

「世の中には生きたくても生きられない人もいるのに、

 なんであなたは自分から病気になりたがるの!?」

そう耳がキーンとするほど叱られた。

 

もちろん陽代だって死にたいとは思っていないし、

むしろ死ぬことをなにより怖がっている。

だからこそ懲りずに病院に通っているわけだけれど。

 

しかしその姿が母親には

「病気を必死に見つけようとしている」

そんな風に映ってしまったようだ。

 

陽代はその言葉にムッとして

何か言葉をぶつけてやろうと考えたが、

「今だって、全然平気じゃない。考えすぎなのよ」

その一言にハッとさせられ声が詰まる。

 

確かに陽代の過呼吸は四六時中起きているわけではない。

それは陽代自身も分かってきていたことだった。

 

例えば夜の寝る時間帯なんかは全く症状は出ない。

 

本や音楽にも一度夢中になってしまえば

呼吸が乱れることなんてない。

 

しかし本を読み終えて、あるいは音楽を聞き終えると、

思い出したように気分が悪くなってくるのだ。

 

だからこそ母親の言う

「病気を作っている」「考えすぎ」という発言は正しく、

それゆえ陽代は何も言い返せずに、

ただただやり場のない苛立ちを誤魔化すために

窓の外を見つめた。

 

この日は平日で、日中の歩道には人は全くいなかった。

 

見かけても老人や主婦ばかりで、

同世代の子は一人もいない。

 

その景色を眺めては、

なぜ自分はこんなところに居るのだろうかと、

そればかり考えてしまう。

 

普通なら学校へ行って授業を受けている時間。

 

或いは友達と取り留めのない話をして

笑いあっている休み時間のはず。

 

それなのになぜわたしは一人隔離されて、

母親から説教を受けなけばならないのか。

 

悪いことをした記憶はない。

災害を見て被災者を蔑むような感情を抱いたことはない。

 

むしろ同情してその悲惨な災害を憐れんだのに、

なぜこんな罰を受けなくちゃいけないんだろう。

 

そう考えると無性に哀しくなってきて

不意に涙がツ―ッと頬を垂れていく。

 

冷たい水滴が頬を伝うのを感じ、慌てて服の袖で拭う。

 

ここで泣いてしまったら、もう抗う気力を失ってしまいそうで。

高校生を満喫することができないまま

高校生活が終わってしまいそうで。

 

まだ大丈夫。きっと元の生活に戻れる。

 

そう自分に言い聞かせて、

次々流れる涙を母にばれないようそっと拭っては、

平静を装うようにじっと窓の外を眺めていた。

 

遠く向こうには大きな入道雲が見えた。

 

綿菓子のように白くきれいに渦巻いた雲。

 

その景色に既視感を感じた。

 

去年もこの車の中で、同じように入道雲を…

 

そう記憶を思い起こし、そして考えるのを止めた。

 

折角涙が止まったのに、再び決壊しそうだったから。

 

だから、陽代は何も考えず、

ただただ視線だけ外に向けて

時間を潰していった。

 

 

そうして何もできないまま、

陽代の高校生活はもう半分を終えようとしていた。

 

 

その夜。

 

陽代は母の泣き顔を見た。

 

昼間に寝すぎてあまり寝付けずトイレに起きてきたところ、

居間で父親に泣きつく母親の姿を、陰から盗み見た。

 

普段気丈で、怒ることはあっても

泣くことなど一度もなかった母親が、

 

「あの子の考えが分からない…もうどうしていいか分からない…」

と父親にもたれるようにして、

しゃくりをあげて肩を震わせながら泣いていた。

 

そんなの、わたしだって分からないもん!

 

…そう言い返したかったけれど、

言ったところで一層母親を悩ますだけ。

 

そう悟った陽代は、仕方なしにまた部屋に引き返して、

一人枕に顔を押し当て、どうしようもなく流れる涙と

込みあがってくる嗚咽を無理やりにせき止めた。

 

 

「お母さん、今日はわたし、行く…」

 

「…うん。頑張ってらっしゃい」

 

無理しない程度にね、と

いつも通りの言葉も付けて娘を励ます母親。

 

むしろいつもより優しく見えて、

昨日の出来事は夢だったのではと思うほどだったが、

母親の赤く腫れた目が夢ではないことを

はっきり示していた。

 

そして同時に陽代の決意も固まる。

 

今ではもう家すらも居心地が悪い。

だから学校へ行こうと。

 

いつも通り駅まで送って行ってもらい、電車に乗る。

 

目立たないように車内の奥に行って、

低い身長を活かし人の影に隠れた。

 

そしてある駅で大勢の人が降りる。

 

ここは陽代が通う学校の最寄り駅でもあり、

また新幹線も通っていることから

多くの人が利用する駅だ。

 

人の波に流されて、陽代は電車の外に追い出された。

 

(学校、行かなくちゃ…)

 

そう自分に言い聞かせるが、体が動こうとしない。

 

昨日の過呼吸の影響でまだ体がだるいせいか、

あるいはこういう日に学校へ行っても

良いことはないと記憶に残っているからか。

 

テストが近いから、宿題を提出しなくちゃいけないから、

理由を持ち出して自分を奮い立たせても、

体はちっとも言うことを聞かなかった。

 

「……学校、行きたくないよぉ…」

 

そしてとうとう陽代自身も折れ、つい本音が漏れる。

 

行っても辛いだけ。

 

かといって家にいるのも今となっては苦しい。

 

だからこそ陽代は駅のホームで動くことができなかった。

 

その時、いきなり真上のスピーカーから

大ボリュームで流れる。

 

突然上から降り注いだけたたましい音に

びっくりして顔を上げる。

 

と、そこには先ほど陽代が乗ってきた電車が

まだ停留していた。

 

何事かと思いじっと見ていたが、

「ドアが閉まります。ご注意ください」

というアナウンスを聞いて、

単に電車の発車を告げる予鈴が鳴っただけだったと、

ほっと胸をなでおろす。

 

しかし陽代自身の抱える問題が解消されたわけではない。

相変わらずその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 

「…いっそ、この電車に乗ってどっか遠くに行こうかな……」

 

ふとそんなことを思ってみた。

 

もちろん本気ではない。

 

テストのこともあるし、第一陽代の生真面目な性格上、

学校をサボるという行為に抵抗があるからだ。

 

しかし学校に行く楽しみも見つからず、

かといってサボるなんて選択を選ぶだけの勇気もなくて。

 

結局のところ動くことは何も出来ずにいた。

 

「おっはよー!」

 

そんな時だった。突然背中から声をかけられた。

 

賑わうホームなのにその声はとてもはっきり耳に届いて、

しかもそれが自分に向けられたものだとすぐに気付いて、

陽代は後ろを振り返った。

 

そこにいたのは、知っている女の子だった。

 

髪を両サイドで束ねた髪がかわいらしさを表していて、

笑顔は綿あめのようにふわふわしていた。

 

見ているだけでつられて笑顔になるような、

そんな彼女の元には多くの人が集まるんだろうなと思えるような。

 

そんな愛おしくかわいらしい女の子が

人をかき分けながら陽代に向けて手を振って近づいてきた。

 

「あ、おはよ……」

 

「あれ、元気ないみたいだけど…?」

 

「うん。実は…」

 

 

 

「そっかぁ…」

 

気が付くと陽代は昨日の出来事から今の心境まですべて語りきっていた。

 

そうすることがごく当たり前であるかのようにスラスラと話してしまったが、言ってから疑問に思った。

 

本当の気持ちをここまで語れる友人は自分にいただろうか、と。

 

そう思い相手の顔を見る。

 

しかしその顔はよく知った顔で。

ここまで心を許せる相手が目の前にいるのだから何も問題は無いと、疑問を打ち消した。

 

「じゃあ、サボっちゃおうよ!」

 

すると突然、相手の口から思ってもいなかった言葉が。

 

「え、でも。学校もあるし…」

 

「行っても辛いんでしょ?

 勉強も身に入らないなら、行かないのと同じなんだから」

 

だから遠くへ行こう、と陽代の手を握る。

 

それはあまりに魅力的な提案で。

 

「えっ、いやでも…えっ!?」

そう一見困惑そうなふるまいをするが

陽代の顔は緩みきっていた。

 

「ほら、行こう!」

 

そんな陽代の本心を知ってか、握った陽代の手を離さないようにがっちりつかんで、発つ直前の電車に滑り込んだ。

 

陽代が乗った瞬間に扉が閉まり、見知った駅を離れて行った。

 

 

 

「どう?気分は」

 

ガタンガタン、と揺れる電車の中。

 

ボックス席で見合うような形で相席しながら、

流れていく景色を見ていた陽代にそう質問する。

 

「え?あ…大丈夫みたい」

 

腕をまわしてみたり胸を押さえてみたりするが、不快感は全くない。

 

さっきまで重くのしかかっていた鬱蒼感を全て先ほどの駅に置いてきたかのように胸が軽くなっていた。

 

それはとてもうれしいことのはず。

でも何か素直に喜べない。

 

なぜ気分が楽になったのか原因が分からないからだ。

 

例えば勉強が嫌いで、

勉強から逃げるためにサボった結果

胸のつっかえがなくなったのならば、

それは理に適っている。

 

しかし陽代の場合は違う。

 

勉強が嫌いなわけでも学校が嫌いなわけでもない。

 

一番嫌いなのは過呼吸だ。

 

にもかかわらず今こうして普段とは違う場所へ向かう電車に揺られているだけで症状は出てこない。

 

その理由が分からなくて、

陽代は一つ小さくため息をついた。

 

「あ!ダメだよ!ため息ついたら幸せが逃げちゃうんだから」

 

「でも、原因が分からないんだもん…。やっぱり自分で病気作っちゃってるだけなのかな…」

 

昨日母に言われたことを思い返す。

 

自分で勝手にパニックになって過呼吸になっているだけ。

 

そう考えると

何の不安もない今は症状が出ないこともしっくりくる。

 

医者がどこか冷たく

「単なる過呼吸です」と告げるのも分かる気がする。

 

しかし、だからこそ、そのことを認めると哀しくなってくる。

 

勝手に自分を追い込んで、

家族にも友達にも迷惑かけていることが恥ずかしくて、

みっともなくて。

 

気が付けばボロボロと大粒の涙が零れてきた。

 

「なんとなく、わかってた。…最初の頃は、

 いつかわたしも死んじゃうんだって考えてパニックになって。

 最近は、一生過呼吸と向き合って

 生きていかなくちゃいけないんだって考えると、

 未来が見えなくなって。

 …まるで出口のないトンネルを独りで歩いてるみたいで…」

 

「…それでも、いつか乗り越えられる日が来るよ」

 

「ッ、そんな気休めは————

 

「気休めじゃない。絶対に終わりは来るんだよ」

 

だからあきらめないで。

そう言う彼女の顔はとても穏やかで。

自制していた涙がどんどんと流れていく。

手で拭っても拭っても涙はあふれてくる一方で。

 

泣き顔を見られたくなくて、陽代は顔を伏せた

 

「…泣くのは恥ずかしくないよ。ほら、顔上げて。ね?」

 

涙を拭っていた手を抑えられて顔を上げられる。

 

その顔は涙や鼻水で汚れていたが、

気にする様子もなく女の子は陽代を胸に抱きよせる。

 

「辛かったね。苦しかったね。疲れたね。…もう、大丈夫だよ」

 

耳元で、母親に似た優しい声をかけられる。

その声に安堵したのか、

陽代は彼女の胸に体重を預けながら、

ゆっくりとまぶたを閉じた。

 

 

「…………ん」

 

目を開けると、辺りはうす暗かった。

背中には毛布が掛かっていて、

顔元には涙で濡れた枕が。

 

そこが自室であることに気付くのは割合早かったが、

先ほどまでのことが夢だったと気付くまでには

かなりの時間を要した。

 

部屋の鏡台で髪をとかしながらふと気づいたことがあった。

 

先ほどの女の子。

 

どこかで見た顔だと思ったが、その顔は自身の顔だった。

 

厳密に言えば陽代が病む前の、

髪をツインに束ねていた中学の頃の姿だった。

 

今では髪はおろしたままにしており、

また過呼吸のせいで笑うことが少なくなったため

全体的に明るさを失っていた。

 

夢の中の少女はまさに陽代が失ったものを持っていた頃の姿だった。

 

しかし中学の頃の幼さとは少し違った落ち着きのようなものも持っていた気がしたが、所詮は夢の話だと割り切り、推察を止めにした。

 

「あら、陽代。おはよう」

 

居間に行くと早速母が挨拶とともに出迎えてくれた。

その声は微かにかすれていて、目元はやはり腫れていた。

 

ひょっとしたら母親が泣いていたのも夢だったのではと

淡い期待を抱いていたが、それも消えてしまった。

 

「…今日、学校行くね」

 

だから、そう告げた。

 

その言葉に母親は一瞬目を大きくした後、

すぐに優しい微笑みを浮かべて

「無理しない程度にね」といつも通りの返事をした。

 

そして陽代は電車に。

 

相変わらず混雑している電車の中へその小さな身を投じて、

少し空いた空間に身をひそめる。

 

そのまま揺られること10分。

いつもの駅に到着した。

 

プシューっと音を立てて扉が開く。

 

と同時に人が一斉にホームへ出ていき、

その流れに流されるように陽代も外へ追い出された。

 

車内で過呼吸がわずかに起こったため気分が悪くなってしまったが、それを我慢しながら他の人の迷惑にならないようにと電車の側から少し離れる。

 

「…………」

 

そして何となしに今降りた電車の方を見る。

 

これに乗ったら、

この過呼吸から解放されるのだろうか。

 

そんなことを考えながら。

 

その時。

 

夢の通り頭上からジリジリジリと

発車の予鈴アナウンスが入る。

 

「ドアが閉まります。ご注意ください」と、

まるで夢のシナリオをなぞっているかのように

一字一句正確に。

 

(夢だったら、ここで声がかけられて…)

 

そう考える陽代の気分は、高揚していた。

 

久しく忘れていたワクワク感。

 

胸が高鳴って、

強張っていた顔も自然と緩んでいくのを感じた。

 

「おはよー」

 

その時だった。

 

その声をはっきり捉えた。

 

陽代はうれしさを全面に出して振り返った。

 

しかし、そこには彼女はいなかった。

 

その声の主は全く違う女子で、

その挨拶も陽代に向けられたものではなかった。

 

「そっか…そうだよね。何期待してたんだろ…」

 

バカみたい、と俯く陽代。

 

そうしている間にも電車は既に人の入れ替えを済まして出発しようとしていた。

 

その様子を見て一度は学校へ行こうと決意する。

 

しかし同時に体調が優れず勉強も身に入らなくてただ机に伏している自分の姿が思い浮かぶ。

 

或いは途中で母親に連絡して迎えに来てもらい、

気まずいまま帰宅して、自室のベッド横になって、

何もできずに一日を終える。

 

そんな光景が安易に想像できた。

 

そんな毎日に希望なんて見つからない。

 

だからどこかで変えなくちゃいけない。

 

でもそんな勇気などない。

 

いつだって陽代は誰かの後ろを歩いていくような性格で。

 

橋を壊すまで叩くような性格で。

 

人と違った行動をとるなんて、とてもじゃないが無理だった。

 

それでも、と自分に言い聞かせる。

今ここで変わらなかったら、一生変われない。

そんな気がしたから。

 

少しだけ、勇気を出してと自分に呼びかける。

 

そして陽代は覚悟を決めた。

 

夢の中の少女のような、

本来の自分を取り戻すために、

学校でも家でもない、

どこか別の場所へ行くその電車に乗ることを。

 

そして今、陽代は弱い自分を抑え込んで、一歩踏み出した。

 

 

 

To be continue…